こんなおいらでも今では人並みにサラリーマン生活を送っている。今の仕事は自分では向いているのかいないのかわからないが、続いているのでおそらくちっとは向いているのだろう。
その日は早めに仕事が終わったのでいつもの満員電車を免れることができた。くだんの居酒屋へ行くと、すでに杉さんと奥さんはいつもの席に腰かけており、その横にはカサンドラもいた。
おいらも近くの席に座り、ビールと酒の肴を注文した。どんなに気分がよくても、満員電車ではストレスが多すぎてすぐにネガティブな気分になる。そんな話をし始めると、カルピスの炭酸割りを飲みながら、キュウリの漬物をつまんでいたカサンドラが、そっとおいらに1つのバッチフラワーを渡してくれた。これはすでにおいらとカサンドラ間ではいつもの儀式になりつつあった。
「ありがとう、これは何?」おいらは誰にともなくいうと、今回は杉さんではなくて、カサンドラ自身が答えた。
「これはね、ゲンチアナよ。キョジャッチはものすごいマイナス思考だから合うはずよ」なんかはじめてこの娘の声を聴いたような気がする。しかもものすごいハスキーボイスが童顔とミスマッチで、まるで刺身をソースで食べているような感じだった。
「あ、そう、じゃあ使ってみるね」
ほかに言うことも思いつかず、そのままポケットにほおりこんだ.
とはいっても、おいらのネガティブ思考の癖は簡単に変えられるものではないはずだった。そこでおいらは海外でも高名なとあるコーチングの先生のセミナーに参加することを内密に計画にしていたのだが、、、。なんとなくカサンドラも誘ってみたくなったので、今度の土日の都合を聞いてみると、暇なので参加してもいいということでいっしょに参加することになった。
結論から言うと、本も読んでセミナーに参加したのだが、この予備知識が余計だったのか、もしくは内容がてんこ盛りで情報の量が多すぎたのか、1週間もたつころには、ほとんど忘れてしまい、せっかくのいい話の連続も、どれもうまく実行できていない自分がいた。
その日、1週間ぶりにあの喫茶店の二階でカサンドラにあって、セミナーでのことを話した。
「どうだった?」おいらが表情を読もうとしてカサンドラの顔を覗き込むように見ると、相変わらず目も合わせないまま、カサンドラは言った。
「うーん、まあまあ、かな」
「まあまあ?へーそう、何がよかったの」
「よかったとは言ってないよ、だいいたい予想通りでまあまあってこと、キョジャッチはどうだった?」
おいらは正直に答えるしかなかった。
「そうだね、いい話だとは思うんだが、内容が多すぎてすべては消化できない感じ、かな、、、
「んだよね、でも気になったところはあったでしょ?」
「そうだなぁ、あえて言うと、ほら、人は気分が大事って言ってたよね。今感じている気分を良くすることが大事だと。それが、いまが、現実を創っていくから、いつでもいい気分に戻れるようにすればいいと」
「ええ、確かに言ってた、人は誰でも一瞬で変われるんだって」
「そうそう、その方法として確か、次のような方法を推奨していたよね」
「なんだったっけ?」
「ほら、今まで生きてきた中で本当に楽しいと思えること10、思い出してみよ、っていうやつ」
「それで、それぞれに15秒ずつ時間をかけると、10あれば150秒になるよね」
「150秒、つまり2分半あれば、楽しいこと考え続ければ、気がつくと誰でも楽しい気分になっている、どんなマイナス感情に支配されていても、気分は変わるんだ、っていうやつ」
「ああ、そうだったわね。んで、やってみたわけ?」
カサンドラはすべてお見通しってかんじで聞いてきた。
「えええ、そ、そうなんだ、やってみたよ、10こ思い出してみた」
「で、どうだった?」
「んん、、、結論からいうとあんまりうまくいかなかった、もちろん最初はできた、というかできるような気がしたんだが、長くは続かないきがした」
おいらが正直に答えると、
「そうだよね、あたいもだよ、でも、その理由もわかってんだ」
カサンドラはカルピスの炭酸割の溶けかかった氷をバリバリかみ砕くと
「その理由もわかっている」ともう一度繰り返した。
おいらは黙ったまま次の答えを待った。気がつくとカサンドラと普通に話ができるようになっていることが自然な感じで、すこしうれしかった。
そしてこの後、カサンドラが話した内容においらはひどく心打たれたのだった。